ベイカーkonのハートに火を灯す日記

”今”を切り取り、思いの丈を書いてます

10年前回顧録

【10年前回顧録
 
今日も、穏やかに一日が暮れようとしています…
何気ない毎日があれほど愛おしく思えた日はありません。
 
 
時は遡ることちょうど10年前。
 
2011年3月11日(金)、昼休憩をとり3時まえのアイドルタイム。
 
私はいつものように、駅ナカのベーカリーチェーン店の厨房で、
夕方からの焼きたてパンの準備と、明日の仕込みをしていました。
 
金曜日は、毎週のようにセールをやっていましたが、
ちょうどその時間帯は、お客様の流れも落ち着いてくるころ。
イートインの馴染みの客も、コーヒーを飲みながら☕️、まったりとしていました。
 
そんないつものように時間が過ぎていた、金曜日の午後、
突然5階建の駅ビルが激しい揺れに襲われました。
一瞬、何が起こったが分かりませんでしたが、
あまりの激しさに立って居られなくなり、地震とわかりました。
揺れのために業務用冷蔵庫や、ドウコンディショナーが、前後に動き出し、
フライヤーの油が外に飛び出しました。
危うく火傷を負うところでしたが、難を逃れました。
店のフロアを見ると、天井からぶら下がる店内禁煙の札が、左右に揺れて、
カウンターのペンダントライトは、ガラス製の傘がお互いにぶつかり割れ、床に落ちます。
急いでお客様の逃げ道確保のために、自動ドアを開けに走りました。 
数分は揺れていたのでしょう、船酔いのような感覚を覚えました。
その後は、店内を点検し、壊れたものを片付けはじめましたが、余震にたびたび襲われます。
イートインのお客様は、店を後にされ、販売のみの営業で続けました。
停電はしなかったので補助電源で動いていたのだろうと思います。水も出ました。
ビルの脇の総武本線は、安全確認のため止まり、しばらく動きそうもありません。
3時半過ぎになり、本部の方から営業中止して、閉店せよの連絡があったと思います。
店内には、セールのために朝から焼いたパンが🍞大量にありました。
仕方ないのですが、あらかた片付けて、店を閉めることに。
販売パートさんと片付けていきました。
やはり、みんな家族や自宅のことが心配です。急いで終わらせて帰宅の準備。
少しだけ、残ったパンをもらいました。
 
駅ナカのテレビで地震のニュースが流れていました。
中継画像に、眼を疑います。
薄暗くなりかけの空に、津波の様子が映し出されていたのです。
この世の光景とは、信じられません。
自宅に連絡しようと電話しましたが、固定電話も携帯電話も全然繋がりません。
駅の公衆電話から、やっと自宅につながり、安否確認は出来ました。
駅も夕方6時でシャッターが閉まり、出入り出来なくなりました。こんなことは、初めてです。
私は、当時車通勤でしたので、車で自宅に帰るつもりで、いつものように乗り込みました。
大通りに出ようとすると、停電で信号が消えてます。
大渋滞になり、行きたい方向に20分経ったても曲がれませんでした。
このままじゃ、通常家まで1時間かかるけれど、何時間もかかりそうと想像がつきました。
あたりはどんどん暗くなっていきます、
今日は、このまま帰るのは、諦めよう。店のことも心配だし。
何かあってからでは、遅い。明日の朝、仕事に来れる保証もない。
しょうがない、駐車場に戻って車の中で夜を明かし、明日の朝の仕事に備えよう。と決めて、帰るのを諦めました。
夕飯、もらったパンがあるのでとりあえず凌げる。でも、本当に大変な事になった。
カーラジオから、その後の新たな続報が次々流れてきて、暗い気持ちになりました。
とにかく、一晩経てば、状況は変わると信じてやるしかない。
 
駐車場に戻って、パンをかじり、シートを倒して横になりました。
ガソリンも少ないので、エンジンを掛けっぱなしはダメだな。
ドアは、ボロ布でしっかり塞ぎ、とにかく寒くないようくるまっていよう。
フロントガラスから見えた、いつもよりも明るく輝いている寒々しい月だけが、こころの頼りでした。
身体は疲れているのですが、中々眠れません。
寝たと思ったら、すぐ寒さで起きてしまいます
時々公衆トイレに行って用を足し、また朝まで。長い夜でした。
 
ようやく明るくなり、お店に戻ってみました。
電気は大丈夫。パンも発酵し始めています。
オーブンも冷蔵庫も大丈夫。駅が開けば、なんとか営業できる。
 
被害がこれ以上大きくならないことを願って、3月12日(土)の準備を始めました。
駅前のコンビニは、パンやお弁当は、空っぽになってます。
こんな時に、焼きたてパン屋は、電源と材料さえあれば、作って売る事が出来ます。
みなさんのお役に今、立てなくていつ立てる!
そんな気構えで、その日をスタートさせました。
 
髭面の、四十オヤジもやる時は、やります。
東北の被災地を思えば、なんて事ありません。
私の父は、岩手県三陸の出身。
やはり、故郷のことは心配でしたが、今、自分がやれることをやるしかないんだと言い聞かせて、
ひたすら作りました。
やはり、予想通り、作った先から買い求める人がひっきりなし。
今日は、作れるだけ作ろうと、覚悟してやり、なんとか1日を終えました。
朝には、停電も収まって電車も動き出していました。
 
その後、1週間ぐらいそんな日が続きましたが、被害の状況は、みなさんのご存知の通り。
今、思い返して見るとあの日から、いろいろあって変わり目だったと思います。
 
10年経ち、長いようであっという間に感じます。
奇しくも10年後、コロナウイルスとの戦いが続いています。
あの日、乗り越えられた私たちだから、今回もいける、
そう思い、今日一日を過ごしています。
いつか、笑える日が来ると信じて。
 

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